金田正一さんの葬儀|400勝投手金田正一さんの経歴・葬儀・お別れの会

公開日 : 2020/5/10

更新日 : 2020/9/14

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2019年10月6日敗血症により逝去された元プロ野球選手の金田正一さん。金田正一さんのお別れの会には金田正一さんと同じ時代を生きた長嶋茂雄氏や王貞治氏なども訪れました。400勝達成や監督としても活躍した金田正一さんの人生や葬儀、お別れの会についてお伝えします。

公開日 : 2020/5/10

更新日 : 2020/9/14

目次

金田正一さんのプロフィール

金田正一さんの葬儀についてお話する前に、金田さんのプロフィールを確認しておきましょう。プロ野球選手として有名な金田さんですが、どのような人生を送ってきたのでしょうか。順番に振り返って、確認していきましょう。

金田正一さん高校2年生の時に国鉄にスカウトされ入団

金田正一さんは、1933年8月1日に愛知県中島郡平和村(現・稲沢市)で生まれました。子供の頃から背が高く、「電注」と呼ばれていたそうです。この長身が後にピッチャーとして大きなアドバンテージになりました。

 

金田正一さんは中学校時代に野球を始め、高校2年生の時に国鉄(現ヤクルト)からスカウトをされ、享栄高校中退後、プロ入りします。金田正一さんは1954年から1960までは国鉄スワローズ、1965年から196年9までは読売ジャイアンツでプレーしました。

 

 

金田正一さんは数々の記録を残した

金田正一さんは国鉄入団後すぐにプロ初登板をし、サヨナラ負けをしてしまいますが、この年の10月にはプロ入り初ホームランを記録しました。金田正一さんが記録した17歳2か月での初ホームランは、現在でも最年少記録だそうです。さらに、金田正一さんは2年目にノーヒット・ノーランを達成するなど約20年間の現役生活で数々の記録を残しました

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金田正一さん日本野球史上初の400勝達成

金田正一さんは現役時代に、大投手としてたくさんの記録を残しています。その中でも有名なのが、400勝達成です。プロ入り2年後から14年連続で20勝を達成しています。現在では1度20勝するだけでも偉業とみなされますが、それを14年連続というのはまさに途方もない達成です。

 

この400勝という記録に到達した投手は、日本野球史上で金田正一さんだけだそうです。それ以外にも、最多奪三振、最多完投、最年少ノーヒットノーランなど、たくさんの記録を残しています。金田さんはまさに球会の大エースとして君臨し続けました。

金田正一さんの結婚や再婚について

金田正一さんは、プライベートでは1960年に歌手の榎本美佐江さんと結婚しています。しかし、その翌年に愛人の雅章子さんとの間に子供ができたことから、金田正一さんと榎本さんは離婚し、雅さんと再婚しています。

 

金田正一さんと榎本さんの間に子供を授からなかった事が不仲の原因になったという説があり、当時は金田正一さんへのバッシングが起こったそうです。

金田正一さんにはプロ野球選手の弟や俳優の息子が

金田正一さんの3人の弟さんもプロ野球選手でした。そのうちの2人は活躍できずに引退していますが、一番下の金田留広さんは通算128勝を挙げるなど、投手として活躍していました。ロッテ時代には、当時ロッテの監督だった金田正一さんの指導を受けています。

 

また、雅さんとの間に生まれた金田正一さんの息子は、俳優の金田賢一さんです。母親の雅さんは宝塚出身ですので、その影響もあったのかもしれません。ちなみに、賢一さんは野球は苦手だったようです。賢一さんは、ドラマ「太陽のほえろ!」に出演する等、二枚目俳優として活躍しています。

金田正一さんの引退後

ピッチャーとして大活躍した金田さんですが、引退後はどのように過ごしていたのでしょうか?この項では、現役引退後の金田さんの人生をみていきます。

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金田正一さんは監督しても活躍

引退後に、金田正一さんは千葉ロッテの監督を2度務めています。1度目は1973年から1978で、2度目が1990年から1991年です。特に、1974年にはチームを日本一に導いており、金田正一さんは指導者としても結果を出しています。

 

金田正一さんは性格的に監督向きではないという前評判を覆し、チームの強化に成功しました。また、監督としても人気者になり、注目を集めました。時には、選手よりも目立ってしまうこともあったようです。

金田正一さんと名球会

金田正一さんは、名球会立ち上げのメンバーとしても有名です。名球会は、優れた野球選手のみ入会が許される組織です。その基準は、打者が2000本安打、投手が200勝もしくは250セーブという厳しいものです。

 

金田正一さんは長年、幹部としてその存在感を示していましたが、2009年に代表と会員を退いています。これは、金田正一さんのワンマンぶりに不満を感じた会員のクーデターとの見方が強いようです。

 

金田正一さんの強すぎる個性が裏目に出たようですね。金田正一さんの退陣後、名球会の事務所は、金田正一さんの個人事務所である「カネダ企画」内から移転しています。名球会という組織を私物化していた印象は拭えません。

金田正一さんの愛された人柄

金田正一さんはその豪快な人柄と歯に衣を着せぬ発言で、常に人々の注目を集めました。金田正一さんの言動は時にトラブルを招きましたが、優しい一面もあったそうです。このような人格は、まさに昭和のスターのそれと言えるのではないでしょうか。まさに時代を象徴していました。

 

金田正一さんのような集団の中からは突き抜けてしまう圧倒的な存在感は、今の時代からは失われてしまったものかもしれません。現代のアスリートのスマートな立ち居振る舞いと、金田正一さんのギラギラした個性はまさに対照的です。金田正一さんのようなタイプは、これからはあまり生まれてこないのかもしれません。

金田正一さんの葬儀

ここでは、金田さんの葬儀について見ていきます。死因と、葬儀がどのように行われたかを確認しましょう。時代を駆け抜けた金田さんの最期と葬儀はどのようなものだったのでしょうか。家族や友人達はどのように彼に別れを告げたのかを確認しましょう。

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金田正一さん86歳で死去

金田正一さんは2019年10月6日、急性胆管炎による敗血症で、86歳で亡くなられました。8月の入院以後はうまく食事ができず、最後の数日は会話が不可能な状態だったそうです。

 

しかし、金田正一さんは病室ではプロ野球や高校野球をテレビで観戦し、集中治療室で看護師に名前を聞かれた際には「長嶋です」とジョークを交えて答えていたそうです。金田正一さんは最後まで野球を愛し、茶目っ気たっぷりに振る舞っていたのが分かりますね。

金田正一さんの通夜や告別式は近親者のみで

金田正一さんの告別式は10月13日、都内で営まれました。通夜、告別式は近親者のみで家族葬でとりおこなわれ、喪主は長男の俳優、金田賢一さんが務めました。台風一過の秋晴れの日に、アットホームに、温かく最後のお別れができたと語っています。

 

戒名はないそうです。理由は、金田正一さんの息子の賢一さん曰く、「仏さんの弟子にはならなそう。「俺が教祖だ」と言いそう。その方が父らしい。」からだそうです。とても金田正一さんらしい、豪快な理由ですね。

 

天国でも「金田正一」として過ごして欲しいという家族の思いがみてとれます。父をよく知る息子さんが言うのだから間違いないのではないでしょうか。

 

弔辞は金田正一さんが生前に指名した村田兆治氏

金田正一さんの葬儀の弔辞は村田兆治氏が読みました。村田さんは金田さんとは、ロッテで選手と監督として共に戦った仲であり、弔辞を村田さんにというのは金田正一さん自身の意思だそうです。

 

村田さんは現役時代の感謝を述べると共に、「正一さん、(弟の)留広さん、(甥の)金石(昭人)さんで合わせて600勝。金田家で1000勝して欲しい」との希望を語りました。これに対し、金田正一さんの長男の賢一さんは、野球選手を育てるという課題を頂きましたね、と話したそうです。

金田正一さんのお別れの会

金田さんの葬儀は近親者のみで行われ、後日、「お別れの会」が行われました。この項では、そのお別れの会の模様をみていきます。この会はどのようにとりおこなわれ、どんな人々が訪れたのでしょうか。最後のお別れを告げるための会を確認しましょう。

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グラウンドをかたどった祭壇に金田正一さんの写真が飾られた

金田正一さんのお別れの会が、2020年1月21日に都内で行われました。会場には、グラウンドをかたどった祭壇の真ん中、マウンドの位置に金田正一さんの写真が飾られました。写真は、金田正一さんが2009年5月24日に初めて神宮球場で始球式をした時の姿でした。大投手の金田正一さんにふさわしい演出ですね。

 

また、会場には金田正一さんの国鉄時代の背番号「34」のユニフォームや写真などが展示されていて、来場した人々が金田正一さんをしのんでいたそうです。やはりこのようなゆかりの品などがあった方が、いろんな記憶や想いを呼び覚まし、追悼することができそうですね。金田正一さんのような有名人のお別れの会には、それにふさわしい企画や演出がありそうです。

約500人の参列者が訪れた金田正一さんのお別れ会

この金田正一さんのお別れの会には、豪華なメンバーが参列しました。金田正一さんと同じ時代を生きた長嶋茂雄氏、王貞治氏をはじめ、野村克也氏、石原慎太郎氏などそうそうたるメンバーが駆け付け、献花しました。

 

この参列者の豪華さが、金田正一さんがいかに大物だったかを物語っています。共に時代を彩ったスター達に、金田正一さんは見送られていきました。見送る側の胸に去来するのは、どんなものだったのでしょうか。

 

また、午後からはファンに向けた一般献花の時間が設けられ、金田正一さんの400人ものファンが献花に訪れたそうです。 

弔辞は金田正一さんの弟子である原監督

金田正一さんのお別れの会の弔辞は巨人の原辰徳監督が読みました。「偉大な野球人の先輩である金田さんから頂戴したたくさんの教えは、私が後世に伝えていきます。」と金田正一さんに語りかけました。また、原監督は、金田正一さんは自分にとって父であり、師匠であり、憧れであったとも語っています。

 

金田正一さんの一般献花にもたくさんのファンが訪れ、関係者を含む約900人が金田さんを見送ったそうです。やはり家族葬とは別に、このようなお別れの会を設けたことで、より多くの人が別れを告げることができたようですね。

金田正一さんは大勢の人に愛された

昭和の大投手、金田正一さんの生涯と葬儀について調べてみました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。強烈な存在感を放った金田さんは多くの人に愛され、見送られました。その輝かしい功績と共に、人々の記憶に残り続けるのではないでしょうか。