横山たかしさんの葬儀|大勢の方に笑いと勇気を与えた昭和の芸人
公開日 : 2020/5/13
更新日 : 2020/9/10
独特の衣装でホラ吹き漫才で人気を集めた横山たかしさんが2019年の6月1日に70歳でお亡くなりになりました。病気を発症した後も車いす姿で舞台に立ち続けた姿に多くの方が勇気をもらいました。今回は横山たかしさんについて詳しく解説しています。
公開日 : 2020/5/13
更新日 : 2020/9/10
目次
横山たかしさんのプロフィール
横山たかしさんは昭和の有名な芸人です。相方のひろしさんとたかしさんの漫才には多くの方が笑顔になりました。たかしさんの人柄から沢山の芸人などから慕われる存在でした。まずは、横山たかしさんのプロフィールについて見てみましょう。
横山たかしさんはホラ吹き漫才の第一人者
横山たかしさんは横山ひろしさんと漫才コンビを組んでいました。所属していた事務所は松竹芸能です。横山やすしさんの弟子でした。生年月日は1948年10月6日です。愛媛県の伊予郡松前町の出身で明蝶芸術学院をでています。本名は山高 考です。
横山ひろしさんがツッコミで横山たかしさんはボケを担当していました。ホラ吹き漫才の第一人者としても有名です。横山たかしさんの名前は三代目にあたります。初代は横山プリン、二代目はレツゴー正児です。
横山たかしさん・ひろしさんの芸風
横山たかしさんの芸風は古典落語の彌次郎話の手法でホラ吹き漫才が有名です。金色の派手な衣装を着たたかしさんがおぼっちゃまという設定で登場して、ヘリコプターで来た事や庭の池は琵琶湖だなどと、ホラを吹いてボケます。
相方のひろしさんは「きたで!」などと場を盛り上げます。途中からボケとツッコミが交代してさらなる笑いを誘います。途中でボケとツッコミが代わるのは、師匠から伝えられた芸風で人気のある部分です。
また、ひろしさんのスーツの裏には「拍手」などのセリフが縫われていて、観客に見せる事でお客さんと一緒により盛り上がりました。たかしさんの衣装は1年半ほど着たらファンに譲るなどして処分していたそうです。
やすし師匠との関係は?
コンビを組んだ当初はやすし師匠と同じ吉本興業に所属していました。その後に正司玲児が弟分に取り、松竹芸能に移りました。師匠のやすしさんには暴力的な面があり、怒ったやすしさんがたかしさんを高速道路で車から降ろされた事などもありました。
やすしさんがひろしさんに留守電を入れているエピソードがあります。留守電には「一着取りや」という部分があり、自分達に託されていると感じたようで大切に保管していると話されていました。
たかしさんとやすしさんの師弟関係は一時、亀裂が入った事もありましたが、たかしさんはやすしさんをとても尊敬していました。やすしさんが亡くなられた時には号泣してやすしさんの事を漫才星人と言いました。
横山たかしさんのエピソードを振り返る
下積み時代の苦労は少なく、コンビを結成してすぐに「おかまどつき漫才」で売れて1971年にはNHK上方漫才コンテストで新人賞を受賞しました。当時は放送倫理基準で問題になり、テレビやラジオへの出演は少なかったです。
人気番組の「笑点」には1970年代前半から何度も出ています。1971年にホラ吹き漫才のスタイルが確立されました。きっかけは歌手の藤圭子の愛人だとホラを吹いた事がうけた事です。たかしさんの派手な燕尾服は園遊会のニュースを参考にしたそうです。
金ピカの衣装に真っ赤なハンカチを握りしめて漫才をする姿は多くの方の記憶に残っています。「大金持ちのおぼっちゃま」と自分の事を言っていました。皆から愛される昭和のお笑い芸人の一人でした。それでは、より詳しく横山たかしさんについて振り返ってみましょう。
上手くいかない時代もあった
順風満帆だと思われていましたが、上手くいかない時代もあり人気が低迷しました。そんな時にやしきたかじんが番組のゲストによんだ事で再度人気が出ました。1988年にはコンビを組んで20周年が経ちましたが、解散や廃業を考える場面もありました。
話し合いの後、1994年の第29回上方漫才大賞で大賞を受賞しました。ひろしさんはボケないように落語に挑戦しました。たかしさんはオセロがデビューした時に10年間頑張ったら100万円やるという発言をしましたが、10年目に入りオセロに土下座をして10万円をあげました。
最初はうまくいっていた横山たかしさん、ひろしさんのコンビも10年、20年、30年と年月が経つにつれてマンネリ化してしまったと感じる時代もあり、解散なども考えられていました。ですが、その都度2人で話し合い乗り越えてきたコンビ愛の強い2人です。
腰部脊柱管狭窄症を発症する
14年の3月に横山たかしさんは腰部脊柱管狭窄症を発症しました。1年ほど仕事を休んでリハビリを行いましたが、下半身が動かなくて復帰を断念しなくてはいけないかと考えられました。ですが、増田英彦が車椅子で復帰してはどうかと発案して実現される事になりました。
2015年の3月に舞台へ復帰しましたが、2018年1月には腸腰筋膿瘍の手術を受けました。病気と闘いながらも舞台に出ていた姿に多くの方が勇気を与えました。ですが、12月24日の大阪の阿倍野で開かれたイベントが生前最後の出番となりました。
復帰に向けて頑張っていたたかしさんだったので、相方のひろしさんはたかしさんが亡くなった時にはとても驚き、悲しみの気持ちでいっぱいという事を伝えています。復帰できなくて残念でしたが、また漫才しようと声をかけてお疲れ様と伝えられました。
横山たかしさんは多くの方に見送られた
ホラ吹き漫才として有名な横山たかしさんは、70歳で亡くなられました。病気と闘いながらも漫才を続けていたたかしさんでしたが、体調を崩して療養をされていました。療養しながらも復帰を目指して懸命に頑張っていたたかしさんの姿は多くの方の記憶に残っています。
漫才を愛する気持ちや相方のひろしさんを大切にしていたたかしさんは、車いすに乗りながらも舞台に立ち続けていました。ひろしさんがお見舞いに行った時に自分達の動画を見せると笑顔を見せる場面もあったようです。復帰を強く願っていたたかしさんとひろしさんでした。
ですが、悲しい事に多臓器不全で亡くなられました。最後は家族に看取られる形で逝かれました。横山たかしさんのお別れ会には多くの方が参列しました。それでは、最期の様子やお別れ会の様子、たかしさんにむけた著名人からのコメントなどを見てみましょう。
家族に看取られて亡くなられる
横山たかしさんは14年3月にヘルニアや腰部脊柱管狭窄症を発症して、その後に腸腰筋膿瘍の手術を受け、病気と闘いながら舞台に出ていました。ですが、体調を崩して19年より療養していました。4月ごろに病状が悪化して6月1日に家族に看取られて旅立たれました。
ひろしさんがお見舞いに行った時に2人が漫才している動画を見せると、うつろな顔も元気になり、声をかけると返事をしてありがとうと話したそうです。この会話がコンビの最後の言葉になりました。ひろしさんはまさか最後の言葉になるとは思ってなかったので残念がっていました。
ひろしさんは、松竹で最長のコンビ歴漫才師として頑張ろうと話していたところだったと悲しみの声をあげました。また、弟子にたかしさんがひろしに漫才を続けてほしいという伝言を残していたようで、改めてたかしさんは最高の相方だったと振り返っています。
多くの著名人がコメント
横山たかしさんが亡くなられて多くの方が悲しみのコメントを寄せました。タレントの森脇健児さんは仕事がかなり減ってしまった時に励ましてくれた時の話をして、感謝の気持ちを述べていました。たかしさんのあたたかい人柄を感じられるエピソードでした。
落語家の桂福団治さんは仕事を共にした時の楽しかった事を振り返っています。よゐこの有野晋哉さんは横山さんが車イスで舞台に上がった時の事を振り返り、憧れの師匠だったと話していました。車いすでも舞台に出る姿には芸人以外にもファンなど多くの方に勇気を与えました。
TKOの木下隆行さんは自身が離婚した時に共に泣いてくれた事を振り返り、お悔やみの言葉を伝えました。この他にも酒井とおるさんなどの多くの著名人が悲しみやお悔やみの声を伝えていて、横山たかしさんの人柄や愛されていた事が伝わりました。
横山たかしさんのお別れ会
たかしさんが多臓器不全で享年70歳で亡くなられて偲ぶ会が大阪市の北区、リーガロイヤルホテル大阪で行われて約700人が参列しました。祭壇には心斎橋角座のセットが設置されて復帰を目指していたたかしさんを偲びました。相方のひろしさんが弔事を読みました。
号泣しながら悲しみの気持ちや思い出を話してやすし師匠に合わないようにといった言葉やまた一緒に漫才しようといった気持ちやお疲れと見送る言葉を伝えました。安田大サーカスの安田さんも参列してたかしさんからアドバイスを頂いた事を振り返りました。
たかしさんへの愛が感じられるコメントを残しました。会場前に、たかしさんが着ていた金のスーツや車いすなどが展示されました。参列者には桂福團さんや酒井くにおさん、とおるさん、正司敏江さん、オール阪神・巨人さん、海原はるかさん、笑福亭松喬さんらも参列しました。
多くの方に笑いと勇気を与えた横山たかしさん
横山たかしさんは相方のひろしさんと大勢の方を笑いに包んでいました。主に寄席で活躍していた二人ですが、多くの方を笑顔に変えてきました。車いすで舞台に立つ姿に様々な人が勇気をもらいました。残念ですが、昭和の大切な芸人がまた一人亡くなりました。
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