桂歌丸さんの葬儀 |お別れを惜しみ告別式に大勢の人が参列した
公開日 : 2020/5/14
更新日 : 2020/9/10
桂歌丸さんは落語家として大変、有名な方でした。特に笑点での姿が全国の方に愛されていました。そんな桂歌丸さんは入退院を繰り返しながらも高座に出ていました。桂歌丸さんについて振り返り、どんな人だったのかや葬儀、お別れ会の様子について見てみましょう。
公開日 : 2020/5/14
更新日 : 2020/9/10
目次
桂歌丸さんのプロフィール
有名な落語家の桂歌丸さんのお別れ会が2018年7月11日に行われました。会場には大勢の方が集まり、桂さんとの最後のお別れを惜しみました。多くの方から愛されていた桂さんの最期やお別れ会について見てみましょう。
桂歌丸さんは横浜で生まれ育つ
桂歌丸さんの本名は椎名 巌さんです。生年月日は昭和11年8月14日で神奈川県横浜市で生まれました。中学に在学していた時に古今亭今輔に入門しました。その後に桂米丸門下へ入りました。歌丸で真打ちをして笑点に出て全国の方々から愛される存在になりました。
中学に在学中に入門する
歌丸さんが中学の時に古今亭今輔に入門しました。そして「古今亭今児」を名乗るようになりました。その際には歌舞伎を見る事で落語にも活きてくるという理由から、歌舞伎を見る事をすすめられたようです。
香盤問題や今輔が新作派なのに高座で古典落語をしていた事などがきっかけとなり破門状態に陥りました。セールスマンへ転職しましたが三遊亭扇馬の計らいで落語界に復帰して今輔門下から兄弟子の4代目桂米丸の門下へ移りました。
米丸さんから入門する時に寄席の初日と中日に必ず今輔宅に行くように言われて、そのおかげで破門する前のような関係を続ける事ができました。今輔さんは寄席などで真打昇進興行や口上にも出演しています。
「桂歌丸」と改名される
米丸さんの弟子となり、古今亭今児から米丸さんが考案して「桂米坊」に改名しましたが子供のようと言われて「桂歌丸」になりました。歌丸さんが初代となりました。口調の違いにより、米丸さんはほとんど稽古を行いませんでした。
歌丸さんは米丸さんのラジオ番組の構成などを行っていました。これにより放送局の関係者などとコネができてネタ作りや独自の手法を入れるのに役に立ちました。1978年の落語協会分裂の時に、落語三遊協会に誘われましたが参加を断りました。
弟子の名前やエピソード
桂歌丸さんの弟子の高座名には「歌」を頭につけるのが原則でした。ですが、3代目の桂枝太郎は、「丸」を名前にほしいとの事で「花丸」としました。おそらく学校の成績が悪くて名前には「丸」が入れたかったのではないかと歌丸さんは振り返っています。
笑点の制作スタッフに報道部から歌丸師匠が亡くなったという情報が入ったと確認の電話が入りました。そこで歌丸さんの家に電話をすると婦人が地方公演に行っていると伝えられて、のちにこれが桂歌丸死亡事件として笑点でも語られました。
座布団を全部没収する場面も面白い
大喜利の際に歌丸さんは自分の悪口などを使う事を許していましたが、いきすぎた言動には怒って座布団を全部没収する事もありました。座布団を全部没収する事は三波伸介等もしましたが、歌丸さんは何度かありYouTubeなどではそこを集めて編集されたものもあります。
円楽さんやたい平さん、昇太さんによるネタがきっかけで没収される事が多かったです。好楽さんの司会は自分のものだという発言や小遊三さんの抱いてほしいといった言葉がきっかけになる場合もありました。
葬儀やお別れ会などについて
桂歌丸さんは笑点で全国に大勢のファンを作りました。多くの方から愛されていた桂歌丸さんですが、81歳で亡くなられました。病気についてや最期について見てみましょう。また、葬儀やお別れ会の様子についても確認してみましょう。
何度も入院と退院を繰り返しながらも高座に復帰した
桂歌丸さんは2016年7月27日に腸閉塞治療のため再入院して8月5日に退院して8月の桂歌丸噺家生活六十五周年記念公演の高座に復帰しました。12月14日の定期検診で軽度の肺炎が見つかり、入院して21日に退院して22日の桂歌丸芸歴65周年で高座に復帰しました。
これはドクターストップを振り切り退院されていました。2017年1月1日の末廣亭正月に出ましたが2日にに肺炎で入院し、18日に退院して22日の新春落語会で高座に復帰しました。4月16日に肺炎で入院して5月13日に退院しました。
6月に左肺炎慢性呼吸不全の急性憎悪になり再入院して14日に退院しました。2018年4月19日の芸協定席興行での高座が最後となりました。24日に肺炎が酷くなり横浜市内の病院へ入院して7月2日の11時43分、慢性閉塞性肺疾患で横浜市内の病院で亡くなられました。
桂歌丸さんの最期の様子
7月3日に落語芸術協会を代表して三遊亭小遊三会長代行・副会長や春風亭昇太理事、桂米助理事、桂歌春理事が会見を行いました。そこで、歌丸さんが入院後に危篤状態から持ち直して6月30日までは話せていた事や6月26日に熱弁していた事が語られました。
その後、7月1日に言葉が出せなくなり、家族や弟子に看取られて旅立たれました。三遊亭円楽さんは4月のお見舞いでは会話が難しかったが6月20日には色々な話をして笑顔も見られたようです。その為、回復すると信じていたのでとても辛いと伝えました。
円楽さんが最後に病室をお見舞いした時には笑点の関係者がビデオ撮影を行いました。その様子を2018年7月12日の追悼番組や8月の24時間テレビで、歌丸さんの生前の最後の映像として放送されました。
葬儀は親族の意向で家族葬
慢性閉塞性肺疾患で享年81歳で亡くなられた落語家の桂歌丸さんの葬儀は10日に横浜で行われました。葬儀は家族葬で行われました。桂米助さんや笑点のメンバーの三遊亭円楽さんなどの50人が集まりました。
参列者に見送られて午前11時42分に出棺されました。妻の冨士子さんが位牌を持ち、霊柩車の助手席に座りました。富士子さんは葬儀会社の方や報道陣に一礼をしました。その後に火葬されました。
歌丸さんは緑色の着物を身に付け、扇子や手ぬぐい、趣味の釣り竿が一緒に入れられていました。桂歌丸さんの方名は「眞藝院釋歌丸」となりました。11日の午後2時より横浜の妙蓮寺でご家族と落語芸術協会の合同によるお別れ会が行われます。
2500人の方が集まったお別れ会
2018年7月2日に亡くなった桂歌丸さんのお別れ会は桂さんの家族と公益財団法人落語芸術協会の合同で7月11日に行われました。株式会社メモワールが執り行い、横浜市北区の妙蓮寺で行われて関係者などが1000人、ファンが1500人の約2500人も集まりました。
弔事は桂米丸さん、柳亭市馬さん、林家木久扇さんが行い友人を代表して中村吉右衛門さんが挨拶をしました。桂米丸さんは歌丸さんが弟子になった時の思い出などの様々なエピソードを振り返りました。林家さんは商店に幽霊姿で出てくれたらと話して笑いが起こりました。
祭壇は白いラインと青い花が敷き詰められて横浜を表していました。遺影は2015年の高座の時のものです。芸に真剣に向き合っていた事や横浜市真金町で育った事から法名は「眞藝院釋歌丸」となりました。その他のお別れ会の様子を詳しく見てみましょう。
挨拶やメモリアルコーナー
友人を代表して歌舞伎俳優の中村吉右衛門さんが最後の挨拶を行った時には涙で言葉が詰まる場面もあり、悲しみが伝わってきました。やるべき事を全てした桂歌丸さんは勝ち逃げしたようなものと、話されていました。
この後に三遊亭小遊三さんが謝辞を述べて大黒柱の歌丸師匠を亡くした事はとても悲しく痛手である事を話し、今後はより一層、確固たる落語芸術協会にしていきたいと話しました。会場には歌丸さんを振り返られるコーナーが設置されていて大勢の方が思い出を振り返りました。
高座に出演している写真や着物や扇などの品が沢山、展示されていました。中には笑点のセットもあり、まるでそこに歌丸さんがいるかのように歌丸さんを身近に感じる事ができました。歌丸さんは金曜寄席という笑点の前身の番組の1回目から出演されていたので感慨深いものでした。
桂歌丸さんとのお別れのために多くの著名人が集まった
お別れ会には桂文珍さん、泉ピン子さん、尾上松也さん、林家たい平さんなどの多くの方が集まり、桂歌丸さんに最後のお別れをしました。インタビューで三遊亭小遊三さんと桂米助さんは歌が嫌いなのかと思っていたが、自宅で歌っていたという事を話して笑いが起きました。
また、桂歌丸さんの背中は追い越せないと、歌丸さんの偉大さを語っていました。会場の設備や写真の数々や集まった人の多さ、落語家以外の方や多くのファンなど桂歌丸さんはとても愛されていたのだという事が伝わってくるお別れ会でした。
笑点により全国の方に知られて人気になった桂歌丸さんは、2016年8月27日の24時間テレビではオープニングの開会宣言を行いました。様々な場面で活躍された桂歌丸さんは、多くの方に勇気や笑いを届けてくれて亡くなられても大勢の方の心に残る人です。
家族葬が行われてお別れ会では大勢の方に見送られた
落語家の桂歌丸さんの葬儀は親族の意向により家族葬で行われました。その後に開かれた告別式のお別れ会では関係者や友人、ファンなど約2500人もの大勢の方に見送られました。何度も入退院を繰り替えしながらも高座に立つ姿は多くの方の記憶に残り勇気を与えました。
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