内田裕也さんの葬儀 |お別れ会「Rock’n Roll葬」での胸を打つ弔辞

公開日 : 2020/5/11

更新日 : 2020/9/8

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生涯ロックミュージシャンとして生き抜いた内田裕也さん。内田裕也さんの「東京・青山葬儀所で盛大に送ってほしい」という願いを叶えた内田裕也さんらしいお別れの会の様子や内田裕也さんと親交が深かった堺正章さんの弔辞、一人娘の也哉子さんの心に響く言葉をご紹介します。

公開日 : 2020/5/11

更新日 : 2020/9/8

目次

内田裕也さんのプロフィール

生涯ロックミュージシャンとして破天荒に生きた内田裕也さんは、葬儀のスタイルも個性的なものでした。実際に行われた葬儀についてご紹介する前に、内田裕也さんの詳しいプロフィールをご紹介します。

【内田裕也さん16歳】高校でバンド活動を開始

内田裕也さんは1939年11月17日に兵庫県神戸市に生まれました。その後、大阪に引っ越して小・中・高校時代を過ごします。堺市立三国丘中学校から中学2年生のとき清教学園中学校に転入し生徒会副会長を努め、部活はラグビー部でした。

 

若い頃の内田裕也さんは勉強が好きで真面目な性格でした。高校は大阪府立旭高等学校に入学、野球部に入りました。16歳、高校時代に知ったエルヴィス・プレスリーに影響を受けてバンド活動を開始、バンド活動に専念するため大阪府立三国丘高等学校の夜学に転校します。

【内田裕也さん18歳】自分のバンド、ブルージンバップスを結成

1958年内田裕也さんが18歳のときに自分のバンド、ブルージンバップスを結成します。メンバーには桜田淳子やちあきなおみなどの多くのアーティストに曲を提供した作詞・作曲家の美川泰士(中村泰士)や俳優の北原謙二などがいました。

 

翌年の1959年には、音楽事務所の渡辺プロダクションに所属し、音楽フェスティバルの日劇ウェスタン・カーニバルに出演しました。1960年には、かまやつひろしや高見純とサンダーバードというバンドに参加しますが、ジャズに傾倒した音楽性に抵抗を持った内田裕也はサンダーバードを脱退して、他のバンドを渡り歩きます。

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【内田裕也さん26歳】ビートルズ日本公演の前座をつとめる

1966年、26歳のときにビートルズ日本公演で前座をつとめます。メンバーはツインボーカルとして尾藤イサオジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズでした。同年にファニーズ(後のザ・タイガース)をスカウトし渡辺プロダクションに所属させます。

 

内田裕也さんは、この頃から所属する渡辺プロダクションと音楽プロデュースの方向性で対立するようになりました。渡辺プロダクションとの関係に嫌気がさした内田裕也さんは、1967年には日本を脱出してヨーロッパに渡り放浪します。

【内田裕也さん29歳】バンド、フラワーズを結成

1969年、29歳のときにオーストリア、ロンドン、ドイツなどのヨーロッパの放浪の中で知った知ったジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックス、クリームなどの音楽に感化され、麻生レミをボーカリストとして結成したバンド、フラワーズがデビューします。

 

1970年には、メンバーの麻生レミとスチール・ギター担当の小林勝彦がアメリカへ渡るため脱退しました。同年に新メンバーを加えフラワー・トラベリン・バンドとしてバンドを再結成し、初LP「ANYWHERE」を発売します。その後、初アルバム「Satori」を発売、1971年にはセカンドアルバム「Made in Japan」が発売されました。

 

世界をターゲットとしたフラワー・トラベリン・バンドは世界を目指し同年の12月にメンバーはカナダへ渡ります。メンバーは約2年カナダに滞在して、カナダのチャートのトップ10に入るなど成果を残しました。

【内田裕也さん33歳】樹木希林と結婚

フラワー・トラベリン・バンドは、1972年に3枚目のアルバム「Made in Japan」を発売、1973年には4枚目のアルバム「Make Up」を発売します。同年、内田裕也さんが33歳のときにフラワー・トラベリン・バンドは解散します。

 

その年の10月、33歳で別居生活をしながらも一生の伴侶となる悠木千帆(後の樹木希林)さんと結婚をします。悠木千帆は自分の芸名をオークションにかけて販売し、樹木希林と改名するなど破天荒な性格です。同じようにロックンローラーとして破天荒に生きる内田裕也さんとの出会いは運命的とも感じられます。

 

同年、1973年に内田裕也さんのライフワークとも言える「NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL」の前身である「フラッシュコンサート」が初開催されます。

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【内田裕也さん36歳】長女の也哉子さん誕生

1976年2月に内田裕也さんと樹木希林さんの間に、一人娘である也哉子さんが誕生しました。也哉子さんは内田裕也さんと十分な親子関係が築けなかったようですが、葬儀では喪主をつとめ内田裕也さんの冥福を自分らしい言葉で祈りました。

 

その後、1年半ほどで2人は別居生活に入ります。原因は若い頃の内田裕也さんのDV(ドメスティック・バイオレンス)にあったようです。2人の夫婦での喧嘩は流血をするくらい激しいもので、内田裕也さんの生き方の伝説ともなっています。

【内田裕也さん46歳】映画「コミック雑誌なんかいらない」で映画賞を独占

1986年、46歳のときに滝田洋二郎さんが監督し、内田裕也さんが主演・脚本を担当した、映画「コミック雑誌なんかいらない」が公開。同年のキネマ旬報主演男優賞をはじめブルーリボン特別賞など映画賞を独占しました。

 

「コミック雑誌なんかいらない」は日航機墜落や山口組の抗争、三浦和義事件など実際に起った事件をテーマにし、ワイドショーに翻弄される大衆を皮肉った作品で、内田裕也さんは俳優としてリポーターの役を見事に演じ切りました。

 

「コミック雑誌なんかいらない」は同年4月にニューヨーク近代美術館で特別上映され、5月にはカンヌ映画祭の監督週間にも招待されスタンディングオベーションを受けました。内田裕也さんは他にも「十階のモスキート」や「座頭市」、「共犯者」、「水のないプール」、「魚からダイオキシン!!」などの映画に出演しています。

【内田裕也さん51歳】東京都知事選挙立候補

1991年、51歳のときに東京都知事選挙立候補に立候補しました。アントニオ猪木が一度出馬表明をしたのに出馬辞退したことに憤りを覚え、ロックンローラーのパワーを世間に見せつけるために出馬、無所属ではトップの54,654票を獲得して世間を驚かせました。

 

内田裕也さんの政権放送は伝説となっています。ジョン・レノンの労働者への喚起の曲「Power to the People」を歌うことから始まり、英語で語りかけるなど、ロックンローラー内田裕也のパワーを証明する政権放送となりました。

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【内田裕也さん55歳】一人娘の也哉子が本木雅弘と結婚

1995年、内田裕也さんが55歳のとき、一人娘の也哉子さんが本木雅弘さんと結婚、挙式は鎌倉の鶴岡八幡宮で行われました。

【内田裕也さん74歳】内田裕也feat.指原莉乃としてシェキナベイビーを発売

2014年、74歳のときAKB48所属のスーパーアイドル指原莉乃さんとの共演で、内田裕也feat.指原莉乃「シェキナベイビー」を発売。プロデュースは秋元康、作詞:秋元康、作曲:斉門、週間オリコンチャートで最高16位を記録した。

【内田裕也さん78歳】New Years World Rock Festivalに最後の出演

2018年、78歳のときに自らが主催する、年越しライブ「New Years World Rock Festival」に車椅子で出演しました。内田裕也さんのステージ出演はこれが最後となりました。パフォーマンスをした曲は「朝日のあたる家」「コミック雑誌なんかいらない」「きめてやる今夜」「ジョニーB グッド」の4曲でした。

 

同年9月、別居中の妻である樹木希林さんが亡くなり、事務所を通じて「最期は穏やかで綺麗な顔でした。」とコメントを発表しました。その約半年後の2019年3月に内田裕也さんは亡くなりました。

内田裕也さんの葬儀や最期について

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内田裕也さんの死因は肺炎

内田裕也さんは2019年3月17日に死去しました。享年79歳、多くの伝説を残しロックンローラーとして人生を全うし旅立ちました。

 

内田裕也さんは4年ほど闘病をされており、亡くなる1年前から体調が悪化していたと事務所が明かしています。2019年1月中旬に肺炎で入院したのち、2月上旬に退院したものの、誤嚥性肺炎を患い再入院となりました。延命治療は拒んでいたそうです。

内田裕也さんの葬儀・告別式は自宅でひっそりと

内田裕也さんのお通夜は3月21日に自宅(渋谷区)で行われ、葬儀と告別式は3月22日に自宅での密葬で、近親者のみで行われました

 

葬儀・告別式に参列したのは、家族・親族とバンド仲間のみで、ひっそりと行われています。遺骨は、内田家の菩提寺である東京・南麻布の光林寺の墓に妻の樹木希林さんの遺骨とともに納められました。

 

内田裕也さんの戒名は「和響天裕居士(わきょうてんゆうこじ)」です。「和」は亡くなってからも天国で音楽を奏で続けて、平和をもたらすといういみがあります。「響」は世の中に音楽を響すという意味があり、樹木希林さんの戒名「希鏡啓心大姉」につけられた「鏡」の字と共通する響の字になっています。

内田裕也さんお別れの会「Rock’n Roll葬」

内田裕也さんの希望によって「メジャーに盛大に!」行われた「内田裕也 Rock’n Roll葬」には北野武・浅野忠信・指原莉乃・竹中直人・秋元康など芸能関係者約950名が参列しました。彼の希望通りに盛大な会になり、マスコミでも多く報道されて内田裕也さんのロックなパワーを世間に示すものになりました。

内田裕也さんご家族での葬儀の後日盛大に行われた

家族・近親者のみのお通夜・葬儀・告別式が行われた後日4月3日に、お別れ会「内田裕也 Rock’n Roll葬」が東京の青山葬儀所で執り行われました。喪主は一人娘の内田也哉子で、内田裕也さんの希望により、お別れ会は「メジャーに盛大に!」盛大で華やかに開催されました。

 

お別れ会は2部構成で、13:00から関係者向けの会を開催、15:00から一般向けの会が開催されました。一般向けの会には、伝説のロックンローラー内田裕也さんの冥福を祈る為に参列者750人が訪れました。

 

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青山葬儀場入り口には横尾忠則デザインのポスター

Rock’n Roll葬の会場「青山葬儀場」の入り口には、ライブ会場のように「内田裕也 Rock’n Roll葬」と書かれた大きな看板が飾られました。さらに、横尾忠則がデザインしたフラッシュコンサートのポスターの現物が飾られました。

 

祭壇は、横尾忠則がデザインした第1回「NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL」のポスターをイメージして作られました。バラなど1万5000本もの花を使い、エベレスト・富士山・ピラミッドを表現しスケールが大きな祭壇となりました。

 

祭壇の中央にはLEDの巨大モニターが設置され、内田裕也さんの遺影や写真、映像などが映し出されました。さらに、内田裕也さんの人生とも繋がる「Rock'n Roll」の文字も飾られていてRock’n Roll葬にふさわしい祭壇と言えます。

ロックンローラー内田裕也さんらしく会場では音楽が流れた

伝説のロックンローラー内田裕也さんらしく、Rock’n Roll葬ではロックテイストの音楽が数多く流れました。フランクシナトラの定番ソング「マイウェイ」、エルビス・プレスリーが主演した映画の主題歌でもある「監獄ロック」、レッド・ツェッペリンやチャック・ベリー、ビートルズなどのロックソングも流れRock’n Roll葬を華やかに色どりました。

 

さらに自身のバンドであるフラワートラベリングバンドの「SATORI」なども流れ、訪れた参列者が在りし日の内田裕也さんと、その生き方を偲ぶことができる選曲になっていました。

内田裕也さんご家族は香典受け取らず3品の御礼を進呈

芸能関係者約950名と一般参列者約700名が参列した「内田裕也 Rock’n Roll葬」は、家族の希望により香典は受け取られませんでしたが、参列者には御礼の品が進呈されました。それは、「焼きそばUFO(最後にCMに出演)」「内田裕也さんのポストカード」「ロックンロールと描かれた特製缶バッジ」の3品です。

 

ジャンクな品物と言える3品を葬儀の御礼の品とするのは、内田裕也さんらしいロックな感覚がよく表現されていて印象に残る御礼品となるでしょう。

内田裕也さんお別れの会「Rock’n Roll葬」での弔辞

弔辞は生前の内田裕也さんと親交の深かった堺正章・崔洋一・鮎川誠・本木雅弘(横尾忠則さんの代読)さんの4人から送られました。弔辞の様子を詳しくご紹介します。

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内田裕也さんと親交の深かった堺正章さんの弔辞

Rock’n Roll葬が始まると内田裕也さんの「僕は今、あの世にいます。Rock'n Rollで生きて、Rock'n Rollで死んでいけたことに感謝いたします」という言葉が会場に響きわたりました。亡くなった内田裕也さんが話しかけてくるという演出は人を驚かせることが好きな彼らしいパフォーマンスです。

 

その後の弔辞は生前の内田裕也さんと親交の深かった堺正章さんがつとめました。堺正章さんは内田裕也さんが一生涯ロックンローラーを貫いて生きたことを述べ、良き手本でもあり、あしき手本でもあったと語りました。

 

さらに、内田裕也さんに言われた「堺、歌手として長生きするにはどうしたらいいかわかるか? ヒット曲を出さないことだ」というウィットにとんだエピソードを語ってくれました。そして、内田裕也さんは半年前に亡くなった樹木希林さんに呼ばれたのだと、二人の関係を物語るような言葉を祭壇の内田裕也さんに伝えました。

続く弔辞は崔洋一・鮎川誠・本木雅弘さん

堺正章さんに続く弔辞は、崔洋一・鮎川誠・本木雅弘さんから送られました。崔洋一さんは内田裕也さんが主演した「十階のモスキート」の監督です。内田裕也さんから「頭にきたから警官が強盗して最後に金を食っちゃう映画を作ろう」と言われたエピソードを語りました

 

続いてSHEENA & THE ROKKETSの鮎川誠さんの弔辞が語られ、本木雅弘さんが横尾忠則の弔辞の代読をしました。その後、内田裕也さんが結婚の保証人をつとめたAIさんが、「アメージンググレース」を歌いました。

内田裕也さんお別れの会「Rock’n Roll葬」也哉子さんの謝辞

Rock’n Roll葬は也哉子さんの謝辞でフィナーレを迎えます。内田裕也さんと樹木希林さんが結婚して約1年半で別居生活となり、一人娘の也哉子さんと内田裕也さんは密接な家族の関わりがなかったそうです。

 

しかし也哉子さんはRock’n Roll葬の喪主となり、内田裕也さんにしっかりとしたメッセージを送って会を締めくくります。

内田裕也さんとはわかりあえなかった

也哉子さんは謝辞の最初に内田裕也さんとは「わかりあえなかった」と述べています。それは、共にいた時間の合計が数週間にも満たないことや、内田裕也さんの捉えにくい性格のためだとも語っていました。

 

音楽プロデューサーとして才能を発揮して、面倒見のよかった内田裕也さんですが、家族に対しては密接な関係を築けなかったとも言えます。

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内田裕也さんと樹木希林さんの関係について

内田裕也さんは樹木希林に対してDV(ドメスティックバイオレンス)をして、他に恋人を作っていたと言われています。一般的には離婚をしてもおかしくない状態にあったわけですが樹木希林さんは、自分が至らないせいで内田裕也さんに迷惑をかけたと言っています。

 

也哉子さんは、そのことについて謝辞で述べています。「母は晩年、自分は妻として名ばかりで、夫に何もしてこなかったと申し訳なさそうに呟くことがありました。」と樹木希林さんは言っていたそうで、内田裕也さんへの無性の愛が感じられます。

 

也哉子さんは家族のことを思わない内田裕也さんや、樹木希林さんの不可解な思いを、長い間納得することができずにいたそうです。しかし、内田裕也さんの葬儀を通して、内田裕也さんの遺品整理などをして彼を知ることで、カオスな夫婦の関係を受け入れることにしたそうです。

也哉子さんの最後の言葉は「安らかに眠るな」

也哉子さんの謝辞の最後の言葉は「79年という永い間、父がほんとうにお世話になりました。最後は、彼らしく送りたいと思います」と宣言した後に語られました。

 

それは「Fuckin’Yuya Uchida, don’t rest in peace just Rock’n Roll!!!」、日本語に訳すと「クソッタレの内田裕也、安らかに眠るな! ロックンロールであれ!!!」です。まさに生涯をロックンローラーとして生きた内田裕也さんを理解した娘の也哉子さんらしい最後の言葉です。

ロックな生き方を貫いた内田裕也さん

生涯ロックンローラーを貫いた内田裕也さん。お通夜・葬儀・告別式は近親者のみで行いましたが、自分のロック人生を締めくくるために盛大に「内田裕也 Rock’n Roll 葬」を開催しました。内田裕也さんは亡くなった後でも大きな存在感を示す、伝説のロックンローラーになりました。