相澤英之さんの葬儀|病気、死因は?生い立ちや政治活動と最期、葬儀について
公開日 : 2020/5/22
更新日 : 2020/9/10
2019年4月、肺炎のため99歳で亡くなった相澤英之さん。官僚、政治家として活躍した相澤さんの生い立ち、家族、仕事から亡くなるまでの過程を調べてみました。また、葬儀の模様についても解説します。さらに、葬儀とは別に行われたお別れの会についても見ていきましょう。
公開日 : 2020/5/22
更新日 : 2020/9/10
目次
相澤英之さんのプロフィール
相澤英之さんが2019年4月、99歳で亡くなりました。相澤さんはどのような人生を終え、亡くなられたのでしょうか。また、その葬儀はどのように行われたのでしょうか。この項では特に、相澤さんの生い立ちと家族について見ていきます。後に大きな功績を残すことになる相澤さんはどのように自分のキャリアと家族を作っていったのでしょうか。
相澤さんの生い立ち
相澤英之さんは1919年7月4日、(現在の)大分県宇佐市に生まれました。相澤家は鎌倉時代から続く横浜の旧家であり、父親は教師でした。父の転任に伴い、引っ越しを重ねた後、一家は横浜に戻りました。英之さんは小学校から横浜で育ち、東京帝国大学法学部卒業後、大蔵省に入省します。 しかし、すぐに招集され、京城(現ソウル)で終戦を迎えた後、ソ連での抑留を経て1948年に復員しました。そして、大蔵省に復職します。戦争を経験した事は相澤さんのたくましい人格をつくるのに大きく影響したようです。激動の時代を生きた人ということですね。
著名な家族
ここで相澤さんの家族を確認しておきます。相澤さんの奥様は女優の司葉子さんです。ただし、相澤さんは司さんとの前に結婚されておりますが、最初の奥様は病死されています。ですので、相澤さんの3人のお子さんのうち、三男の宏光さんだけが司さんとのお子さんです。 長男の英孝さんは法学者、一橋大学名誉教授で、次男の中島周さん(婿養子にいかれています)はキューピー取締役会長であり、三男の宏光さんは美容皮膚科の院長を務めています。また、宏光さんの妻はタレントの相田翔子さんです。まさに華麗なる一族と言えるのではないでしょうか。それぞれが自分の分野で一線級の活躍をしている、きらびやかな有名人一家ですね。相澤さんも自分の家族を誇りに思っていたのではないでしょうか。全員が相澤さんに負けず劣らず優秀なのは、素晴らしいことですよね。
官僚、政治家として活躍
ここでは相澤さんの仕事について見ていきます。相澤さんはまずは官僚として、そして後に政治家として活躍しました。国を動かす重要な仕事ですが、具体的にどのような職務を果たしていたのか確認しましょう。相澤さんは官僚としても、政治家としてもかなり大きな力をふるっていたようです。
官僚として
相澤さんは復員後、大蔵省に復職して下京税務署長を務め、程なく主計局主査として本省に戻ります。以後、事務次官になるまで、近畿財務局長、理財局長、経企庁官房長を計3年務めた他は全て主計局勤務でした。主計局の在職歴が最も長いようです。 エリートが集まる大蔵省で事務方のトップである事務次官になるだけでもすごい事なのに、力を持っている主計局に最も長くいたというのは、相澤さんがいかに優秀だったかを物語っていますね。この後、相澤さんは退官して政界入りします。そして、より大きな力をふるうようになります。
衆議院議員として
相澤さんは1976年の衆議院議員総選挙に初当選した後、9回連続当選しています。経済企画庁長官、金融再生委員長などの要職を務めました。また、自民党税制調査会会長やデフレ対策特命委員長なども歴任しています。 大蔵官僚出身らしく、経済政策に力を注ぐことが多かったようですね。「税制、金融のプロ」と呼ばれ、自民党内で強い存在感を示し続けました。
死去と葬儀
相澤英之さんはどのような最期を迎えたのでしょうか?また、葬儀はどのようにして行われたのでしょうか。この項では相澤さんの最期と葬儀について見ていきます。要職について活躍した相澤さんを、家族はどのような形で見送ったのでしょうか。
相澤さんの最期
相澤英之さんは2019年4月4日午前6時45分、肺炎のため都内の病院で死去されました。99歳でした。たくましい見た目でエネルギッシュに活動し、あまり病気の話を聞かなかったことや、99歳という年齢を考えると、大往生と言っていいのかもしれません。 相澤さんは、死没日をもって正八位から正三位に昇叙されたということです。国も相澤さんの死を惜しんだということですね。相澤さんの経歴を見れば、当然のことかもしれません。
葬儀について
相澤さんの通夜と葬儀は親族のみで行われました。喪主は妻の司葉子さんが務めました。おしどり夫婦で知られたお二人でしたが、つらい気持ちもあったはずの司さんが喪主を務めたということですね。やはり自分がやらなければ、という気持ちがあったのでしょうか。 交友関係が広かった相澤さんですが、葬儀を親族のみで行ったということは、やはり最後は静かに見送りたいという家族の思いが強かったということですね。
お別れの会
相澤さんの死後、葬儀とは別にお別れの会がとり行われました。ここではそのお別れの会の様子をお伝えします。鳥取と東京の2か所で行われたお別れの会について詳述します。お別れ会が2か所で行われたところに、相澤さんの存在の重要性が感じられますね。
米子にて
2019年5月28日、鳥取県米子市の米子コンベンションセンターにて相澤さんのお別れの会が行われました。鳥取県は妻の司葉子さんの故郷であり、相澤さんが本籍地を移すなどゆかりの深い土地です。 訪れた約800人が遺影に花を手向けました。鳥取のインフラ整備など、県の発展にも力を注いだ相澤さんに対して、参列した県知事や政治家が感謝の言葉を述べて故人を悼んでいました。相澤さんは鳥取に愛着を持っていたので、喜んでいるのではないでしょうか。
東京にて
また、お別れの会は東京でも行われました。2019年6月18日に東京プリンスホテルにて、自民党と相澤家合同で行われました。実行委員長は麻生太郎氏で、喪主は妻の司葉子さんが務めました。会には安倍首相ら自民党関係者など、多数の人々が参列しました。 やはり相澤さんのような国の要職についていた方は東京でもお別れの会を行う必要があったようですね。こちらの会場でも、遺影を前に一人ひとりが献花して相澤さんをしのんでいました。葬儀と二つのお別れの会で、様々な人が相澤さんの死を悼む機会を得られたようですね。
相澤英之さんは旅立った
相澤英之さんの人生と葬儀を振り返ってみました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。相澤さんは精力的に活動し、多くの人に見送られて旅立っていきました。これからも、相澤さんの功績は色あせることなく残っていくでしょう。
ご相談・お問い合わせください