大沼明穂さんの葬儀|街おこしに尽力をつくした元沼津市長の最期とは

公開日 : 2020/7/28

更新日 : 2020/9/8

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ITベンチャー企業の社長から沼津市長に転身した異色の経歴を持った元沼津市長の大沼明穂さんは、2018年3月21日に小脳出血のため58歳という若さで急遽されました。生前は「人気アニメの聖地」として街おこしに尽力を注いだ大沼明穂さん最期についてご紹介します。

公開日 : 2020/7/28

更新日 : 2020/9/8

目次

大沼明穂さんの経歴

大沼明穂さんは、沼津市長に初当選しわずか1年4ヶ月後に亡くなられました。「世界一元気な沼津」をスローガンに掲げ、在任中は沼津市の発展のために尽力をつくした大沼明穂さんはどのような人生を歩んだのかをご紹介します。

静岡県沼津市に生まれる

大沼明穂さんは1959年6月13日、静岡県沼津市下香貫牛臥で生まれました。沼津市立第三小学校・中学校を卒業し、静岡県立沼津東高等学校に進学。その後東京大学理科Ⅰ類へ入学し、在学中は東大オーケストラ部に所属しました。

大学在学中にボランティア活動に従事

東大在学中には1年間休学し、難民支援の活動をするJapanボランティアセンター(UNHCR)に所属し、タイのバンビナイ難民キャンプやインドのマザーテレサ修道院病院で、難民を支援するボランティア活動に従事しました。

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大学卒業後、日本アイ・ビー・エムに就職

1984年3月に東京大学卒業後、「日本アイ・ビーエム」に就職。システムエンジニア、営業、経営企画などの業務に携わりました。

44歳でITベンチャー企業を設立

大沼明穂さんは44歳の時、18年間務めた「日本アイ・ビー・エム」を退職。翌年の2003年に、日本アイ・ビー・エム時代に培った知識と技術を活かし、スマートフォンや携帯のサイトやアプリ、ホームページの制作などを手掛ける「ユビキタス・ビジネステクノロジー」を設立し、代表取締役社長に就任しました。

57歳で沼津市長に初当選

2016年7月15日、沼津市内の牛臥海岸で記者会見を開き、次期沼津市長選挙への立候補を表明しました。立候補のきっかけは、親の介護の為に故郷の沼津市に戻ってきた際に、「沼津市はすっかり元気をなくしていた」と感じたことでした。その後の選挙戦では沼津市内にIT企業を誘致して若者が働く場をつくることなどを公約し「現状打破」を求める多くの市民から支持を集め、4万3159票を獲得。3期目を目指す現職市長におよそ1万8千票もの差をつけ見事当選を果たしました。

アニメ「ラブライブ」の聖地として街おこしに革命を起こした

大沼明穂さんが市長を務めていた沼津市は、アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」の舞台ともなった聖地ということで、若者をターゲットにした「アニメの聖地」として地図を参考にしながら「ラブライブの聖地を巡礼しよう!」や作品に登場する声優グループをPR大使に任命するなど、ファンを巻き込んだの様々なイベントを企画し、静岡県沼津市をアピールしました。 大沼明穂さんの訃報を受けて、SNSでは「沼津が受け入れてくれたからこそ、これだけ作品を楽しむことができた」「これからは作品、ファンの人たちで大沼市長の愛した沼津を盛り上げて、恩返ししないといけない」など、「ラブライブ」ファンからも多くの追悼メッセージが寄せられました。 また街おこしのイベントを企画した他、沼津市長に見事初当選してからは、市長選で推進・反対両派の意見を聴くとしていた「JR沼津駅の鉄道高架化事業」を平成30年度当初予算案に土地収用法に基づく調査の費用を計上するなど、推進の姿勢を鮮明にしてました。

公職選挙法に触れる問題

2018年1月10日には、大沼明穂さんが沼津市長選で初当選後に、公職選挙法で選挙区内の有権者への供花を含む寄付を禁じられている葬儀への供花を繰り返していた問題などが明るみに出て市議会などで追及を受け、「他にも葬儀に出たことはあるが、今回のような公職選挙法に触れるようなことはない」と説明しました。 また、この供花の他にも「沼津市長 大沼明穂」の名前で2回供花していたことで、「代金1万6200円は自費で払った。市長が選挙区内で自費で供花をすれば公選法に触れる。また市費で供花する場合は名義は沼津市長か沼津市で、市長の個人名は出ない。」と市議会で弁明しました。  大沼明穂さんは最終的に、「公選法の認識が足りなかった。市民の信頼を損ね誠に申し訳ない。自分自身が襟を正し身を律していかなければならない」と陳謝し、自らの処分については「行いを深く反省し、よく考えていきたい」と語りました。

大沼明穂さんの人柄について

IT企業の社長から沼津市長へと転身をした大沼明穂さんは、多忙な毎日でも常に明るい笑顔で公務に取り組み、どんなことにも全力で一生懸命取り組む人でした。 沼津市の発展のために日々努力をし、周囲からは頑張り過ぎなのではという心配の声も上がっていたと言います。市長という立場でも、おごり高ぶらず、誰にでも気さくに接する人柄は、多くの市民から愛される存在でした。

大沼明穂さんの最期について

沼津市を世界一元気な町にしようと、多忙な公務を精力的にこなしていた大沼明穂さんの訃報はあまりにも衝撃的でした。亡くなる前日までは、普段通り元気に公務にあったっていた大沼明穂さんを突然襲った病いや最後の様子についてご紹介していきます。

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体調不良のため緊急入院後、復帰し公務に当たった

大沼明穂さんは、亡くなる1年前の2017年1月には体調不良で市内の病院に1ヶ月半ほど入院し、軽い小脳出血と診断されましたが再び復帰し公務に当たっていました。小脳出血の場合は早いうちに手術すると改善しますが、大沼明穂さんはごく軽い症状だったのか、公務が忙しかったため手術をせずに本人の意思で退院したのかもしれません。

死因は小脳出血だった

大沼明穂さんの死因は、2017年1月に半月程入院し治療に当たった「小脳出血」でした。大沼明穂さんを襲った病いである「小脳出血」は、脳出血が小脳で起きた状態で、日常の活動中に突然激しい後頭部痛が生じ同時に回転性のめまい、反復する嘔吐といった症状がみられます。 最初のうちは意識障害はありませんが、発見が遅れると徐々に意識障害が起こり、呼吸状態が悪くなっていく病気です。 大沼明穂さんも、亡くなる前日まで普段通り公務にあたっていたとのことなので、突然倒れたのでしょう。

公務のために送迎にきた沼津市職員に発見された

大沼明穂さんが倒れている所を発見したのは、公務の送迎を担当する沼津市の職員でした。 大沼明穂さんが亡くなった3月21日は午前9時から公務があったため、午前5時半にメールで迎えの時間を送信。その後、自宅に迎えに行った市職員が呼び鈴を鳴らしても大沼明穂さんが出てこなかったため庭に回り、窓越しから寝室で倒れている大沼明穂さんを発見しました。 すぐに市職員が119番通報し、駆けつけた救急隊が心肺停止状態の大沼明穂さんをを沼津市立病院に搬送したが、その後死亡が確認されました。 大沼明穂さんには市長選で事務所スタッフとして精力的に父を支援した娘さんがいますが、海外に在住しており日頃は沼津市下香貫牛臥の自宅で一人で暮らしていたため発見が遅れてしまいました。  

大沼明穂さんの葬儀について

沼津市長としてまさにこれからの時の突然の訃報に、大沼明穂さんご自身はもちろんのこと、周囲の方たちも悔いの残ったことでしょう。そんな、大沼明穂さんの葬儀はどのようなものだったのかをご紹介していきます。

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密葬で行われた

大沼明穂さんの葬儀は、後日沼津市主催のお別れの会を開催する予定だったことから「密葬」という形で近親者のみで執り行われました。

お別れの会には、2000人参列した

大沼明穂さんの「お別れの会」は、亡くなっってから約20日後の2018年4月10日に沼津市大手町のプラサヴェルデで営まれました。お別れの会には、沼津市民ら約650人がセレモニーに参列し、総参列者数は2000人を超えました。 大沼明穂さんの長女の葉夏(ようか)さんは「父は常に元気で、元気なまま亡くなった。これで父は永遠に元気ということになった。『世界一元気な沼津』になるよう支えてくれた多くの方に心より感謝します」と市長選などで亡き父が掲げていたスローガンを交えて追悼の言葉を語りました。 また、新屋千樹(かずしげ)副市長は「市長が何より大切にしたのは市民とのコミュニケーション。市民を愛し、市民から愛された市長を心から誇りに思う」と述べました。沼津東高同級生で後援会副会長を務めた竹内純子さんは「まちづくりは一人一人が考え、語り、行動していくことの積み重ねと教えてくれた。あなたと出会えたことを心から感謝します」と語りかけ、多くの方が大沼明穂さんの早すぎる死を惜しみました。

沼津市役所に弔意記帳所が設けられた

大沼明穂さんの突然の訃報をうけ、3月27日(火)~4月2日(月)まで市民がいつでも弔問できるようにと沼津市役所1階に「弔意記載所」が設けられました。市役所に設けられた記帳台では、およそ1,250人ほどの市民が亡き大沼明穂市長を偲びました。 後日行われたお別れの会にも記帳所が設けられ、当日の会場に設けられた記帳台では約750人が弔意の記帳を行い、市役所に設けられた記帳台での記帳者との総計は約2000人ととなりました。 沼津市民やお別れの会への参列者からの大沼明穂さんへの弔意の記帳書は、お別れの会が終了後に、沼津市から市長の遺族に届けられました。

多くの市民から愛された市長だった

沼津市長に初当選し、沼津市の発展のために尽力を尽くしていた大沼明穂さんのあまりにも突然の訃報に多くの市民や関係者が衝撃を受けました。そして誰よりも、大沼明穂さん本人が悔いの残ることになったかもしれません。 とても気さくで常に笑顔で市民と接する姿は、本当に素敵だった大沼明穂さん。天国から「世界一元気な沼津」になるまで、見守り続けていることでしょう。改めて、大沼明穂さんのご冥福をお祈りいたします。