叡南覚照さんの葬儀|赤山の御前さまと呼ばれた男が選ぶ最後とは?

公開日 : 2020/7/15

更新日 : 2020/9/10

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人が集まるところに笑顔がうまれると教えで、政界からも慕われた叡南覚照さんは、2018年4月9日の19時に急性心不全のため遷化されました。今回こちらでは、赤山の御山さまと呼ばれた叡南覚照さんの詳しいプロフィールと葬儀についてご紹介します。

公開日 : 2020/7/15

更新日 : 2020/9/10

目次

叡南覚照さんのプロフィール

権威は必要ないと、天台宗の運営面を取り仕切るトップの役職である比叡山の宗務総長になることを断ったという叡南覚照さんの葬儀についてお話をする前に、まずは叡南覚照さんがどんな方であったのか、プロフィールからご紹介します。

出家

叡南覚照(えなみかくしょう)さんは、1927年(昭和2年)に名古屋で生まれました。俗名は木村和男さんと言います。1940年(昭和15年)、13歳の時に叡南祖賢(えなみそけん)さんの師匠である叡南覚誠さんの弟子として出家得度をし、戒名を「叡南覚照」と与えられました。

戒名とは

戒名は、人が亡くなってから与えられるものだと思う方が多いと思いますが、本来は仏様の弟子として、教えに従って戒を守る誓いをたてたものに与えられるものです。「戒」とは、仏教の信者が守るべきいましめのことで、立場によってたくさんの種類があります。

 

叡南覚照さんのように、出家得度をしたことによって、戸籍上の名前である俗名と僧侶としての名前である戒名がまったく異なることは、決して珍しいことではありません。例えば、一般家庭から出家得度した場合は特に戸籍上の名前から変わります。

 

一方、お寺で生まれた人であれば戸籍として登録された名前の漢字は変えずに読み方だけを音読みをしたものを戒名とすることもあります。身近にお寺で生まれたという知り合いがいれば、普段呼んでいる呼び名と戸籍上の名前が違ったという経験をした人もいるのではないでしょうか。

千日回峰行を満行

1960年(昭和35年)、叡南覚照さんは33歳の時に千日回峰行を満行しました。堂入りの際には、叡山には道路もケーブルカーの運行が無いにも関わらず、「生き仏さま」となり出堂する叡南覚照さんの姿を拝もうと信者さんたちが真言を唱えながら集まりました。

 

叡南覚照さんはお堂の扉が開くと、葉上照澄(はがみしょうちょう)さんと小鴨覚禅(こがもかくぜん)さんに付き添われ、杖を片手に持ち、白衣姿で眼光鋭く毅然とした様子で現れました。

 

すると、大勢集まった信者さんたちからは、大きなため息が聞こえたそうです。約900近い草鞋を履きつぶすと言われいている千日回峰行において、叡南覚照さんは41番目、戦後4人目の満行者となりました。

千日回峰行とは

千日回峰行とは、平安時代に延暦寺の和尚によって開創された天台宗の修行の中でどれよりも荒行の修行だと言われています。比叡山の峰々を縫うように7年をかえて巡りながら修行をします。3年目までは1日に約30キロを毎年100日間、決められた場所で立ち止まり礼拝をして歩きます。

 

4年目と5年目は、同じように1日に約30キロを毎年200日間歩きます。その後、堂入りが行われます。堂入りは「生き葬式」とも言われ医学的に死を意味する9日の間、断食、断水、不眠、不臥の状態で不動真言を唱えます。6年目は「赤山苦行」と言われる約60キロを100日の間巡礼します。

 

7年目には、200日の中の前半は84キロ、後半は30キロを巡礼します。修行を半ばで辞めるのであれば、自ら命を絶たなければならないという掟があります。千日回峰行を満行すると「阿闍梨(あじゃり)」となります。阿闍梨は、天台宗や真言宗で使われる高僧を指す呼び方です。

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天台宗赤山禅院の住職に

叡南覚照さんは、京都市左京区にある赤山禅院の住職を長く務めました。赤山禅院の住職を弟子である叡南俊照さんに譲った後は、咽頭がんで声が出ないなどの症状と戦いながら長い療養生活を続けていました。

 

病気の影響で声が出なくなってからも、手と手を握り合うことで心を通わせていたそうです。

天台宗とは

天台宗は、約1200年前の806年(延暦25年)に伝教大師最澄によって開かれた宗教です。最澄は、早くから才能を開花させ、12歳で近江の国分寺に入り、780年(宝亀11年)、14歳で得度しました。そして785年(延暦4年)には、東大寺戒壇院で具足戒を受け正式な僧侶になりました。

 

唐に遣唐使と一緒に渡り天台教学を学び、禅の教えと密教の伝法を受けて帰国すると、円密一致と言われる日本の天台宗の基礎をつくりあげました。当時は「仏にはなれるものとなれないものがいる」という説がありましたが、最澄は「すべての人が仏になれる」と説きました。

 

最澄が受戒後に比叡山で修行をした際、人々が救われることを願って一条止観院を建て薬師如来を安置しました。最澄の遷化後に、この一条止観院は比叡山延暦寺と呼ばれるようになりました。織田信長の焼き討ちに合い宗勢が衰えましたが、江戸時代に天海によって盛り返します。

赤山禅院とは

赤山禅院は比叡山の西の麓に位置し、「赤山さん」の愛称で親しまれています。住職は、千日回峰行を満行した大阿闍梨が務めることとなっています。大阿闍梨によって、「八千枚大護摩供」や「ぜんそく封じ・へちま加持」、「数珠供養」などのさまざまな加持や祈祷を行いました。

 

「ぜんそく封じ・へちま加持」とは、古くから中秋の名月の日に毎年行われている天台宗に伝わる秘宝です。大阿闍梨によって、へちまにぜんそくや気管支炎の病を封じ込め、病気や災難を取り除いたり祈祷を行ったりします。

 

毎年11月23日には、使わなくなった数珠を炎によって清めるために数珠供養として「お焚き上げ」を行います。赤山禅院は「紅葉寺」とも呼ばれており、11月になると境内はもみじが色づきます。紅葉のスポットとしても、赤山禅院には毎年、多くの人が集まります。

叡南覚照さんの人柄と教え

叡南覚照さんは、端麗な容姿であり、鋭い勘を持っている方でした。多くの小僧の方たちににも慕われていて、堂入りの際には堂内が溢れんばかりに付き添いの小僧の方たちでいっぱいになるほどだったそうです。叡南覚照さんは、親しみを込めて「赤山の御前さま」と呼ばれていました。

 

誰でも近寄りやすいようにと、いつも麦わら帽子をかぶっていたという叡南覚照さんを慕って、多くの若者が赤山禅院を訪れました。その理由は、僧の最高の位の大僧正であるにもかかわらず、気さくな人柄であり、型破りの発想を持っていたからです。

 

しかし、叡南覚照さんは、慕って集まる若者たちに対して、仏教の話をすることはほぼ無かったそうです。叡南覚照さんは、直接的な仏様の教えではなく間接的に話をすることで天台宗の教えや深い人間性について伝えていました。

驚きの神通力

1970年(昭和45年)12月、叡南覚照さんの師でもある叡南祖賢さんがすい臓がんを患い、京都府立病院で手術を受けました。しかし、年が明けると危篤となってしまったそうです。その際に叡南覚照さんは、誰もが驚くような型破りな行動にでたそうです。

 

なんと、坊さんは病院ではなく寺で亡くなるのが本当の姿であり、行者は移動の途中で容体が急変することはないと断言し、僧などが人里につくる僧房へと20キロ以上ある道のりを寝台車に乗せて走ったそうです。

 

僧房へつくと、重体であるはずの叡南祖賢さんは目を開けて、枕もとを囲み法華経を唱えている弟子たちの顔を一人ひとり見ながら息を切らせつつ言葉を発した後に、息を引き取ったそうです。

叡南覚照さんの最後

人はみな繁栄でき、とにかく笑顔でいることが大切だと教え続けた叡南覚照さんは、2018年4月9日、19時に急性心不全のため92歳で遷化されました。大行満大阿闍梨として赤山禅院の住職を長く務めた叡南覚照さんの最後についてご紹介します。

葬儀

通夜と密葬は、近親者のみで行われました。延暦寺山葬は、5月10日午前11時から生源寺で営まれました。喪主は叡南覚照さんの一番弟子でもある延暦寺山律院住職の叡南俊照(えなみしゅんしょう)さんが務め800名を超す参列者とともに行われました。

 

生前の叡南覚照さんは、勝負に関してはとても厳しい一面を持っていたそうで、運は自分でつかむものであり、そのためには努力をすることと笑顔が大切だと教えていたそうです。そのこともあり、政治界との親交もあり、政治家の方を呼びつけて叱ることもあったそうです。

 

そのような叡南覚照さんの葬儀には、小沢一郎さんなど葬儀に駆けつける議員の方がいたり、安倍首相や菅官房長官からの献花や電報が届いたりしていたそうです。

 

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戒名

戒名とは、仏の弟子となった証としておくられるもので、通常であれば天台宗での戒名は、2字、4字、6字が一般的です。しかし、叡南覚照さんには遺徳を讃え18文字の称号が与えられました。その戒名とは、「自在心院大僧正大行満大大先達覺照總一和尚」です。

慕われていたことを感じる葬儀

叡南覚照さんの葬儀は、叡南覚照さんが多くの人たちに慕われていたこと、そして遺徳を偲ばれながらであったことを感じられる立派なものだったことがうかがえます。これらはすべて、叡南覚照さんのお人柄が素晴らしかったからなのかもしれません。