板倉聖宣さんの葬儀|原子論的葬式を唱えられた科学会の偉人

公開日 : 2020/6/30

更新日 : 2020/9/10

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板倉聖宣さんは、科学思想や教育業界へ多数の功績を残されてきた科学会の著名人です。今回は彼が残してきた科学思想に対する功績や教育思想に対する思想。並びに経歴を紹介しながら彼が切望していた「原子論的葬式」について解説していきます。

公開日 : 2020/6/30

更新日 : 2020/9/10

目次

板倉聖宣さんのプロフィール

科学教育の「巨人」とも評されていた、板倉聖宣さん。彼は科学の基本的な考え方を伝える「仮説実験授業」の提唱等を通じて科学教育に数々の実績を残されています。しかし、彼が業界へ残した実績は他にも多数存在しています。以下、彼の経歴と共にそれを紹介します。

板倉聖宣さんの幼少期

板倉聖宣さんは、1930年5月2日。東京の下町で生まれました。父が医療機器の製造職人ということもあり、板倉さん自身も数学の成績はとびぬけてよかったそうです。しかし、社会や口語関連の教科の勉強を疎かにしていた影響で、初めての中学受験に失敗します。

 

挫折から幕を開けた板倉さんの勉学の道。しかし、1945年。敗戦を経験して以来、社会科学系への勉学にも励み始めた結果、旧姓浦和高等学校への進学を実現します。そこで、彼は科学史と共に哲学への教養も深めることに心血を注ぎました。

 

その努力のおかげもあり、1949年。彼は新制の東京大学への入学を果たします。専攻は科学史でした。ここから、本格的に板倉さんの研究者としての人生がスタートしました。

 

 

 

東京大学入学後の板倉さん

東京大学入学後の板倉さんの活動は大まかに分けると2つです。1つ目が、「認識論」の研究活動です。三浦つとむさんが記した「哲学入門」に影響を受けた板倉さんは、スターリンの掲げた認識論に疑問を持ちました

 

その後、研究を続けた結果「科学的認識はすべて仮説をもって対象に目的意識的に問いかけることによってのみ成立する」という結論をだしました。2つ目が、「自然弁証法研究会」の設立活動です。

 

当時、板倉さんは科学史科哲学分科に1期生として入学されたので師事する教授や専門家が全くいない状況でした。この状況をだはすべく、後輩たちと研究会を設立しました。そして、この研究所では地動説の歴史の研究に没頭されていたそうです。

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国立教育研究所へ入所後の板倉さん

東京大学での精力的な研究活動を終えた後、板倉さんは国立教育研究所に所属されました。この研究所は、文科省の意向が強く働く場所だったので、研究の自由が利かない苦労の日々の連続だったそうです。

 

しかし、板倉さんはこの様な状況でも辞職を覚悟の基で、科学教育の研究に力を注がれました。そして、1963年同僚の上廻昭さんと共に仮説実験授業を提唱されます。そして、その3年後。仮説実験授業研究会を新たに設立されました。

 

この研究所にて、彼は「いたずら博士」というペンネームを使い「少年少女科学名著全集」や「日本理科教育史」等の科学啓蒙書の刊行に尽力されました。この「日本理科教育史」は2010年にパピルス賞を受賞されたりと数々の功績を残されています。

板倉研究室開設後の板倉さん

国立研究所にて、上記の研究を行った後の1994年。板倉さんは国立研究所で定年退職を迎えられました。同時に、同所の名誉所員へ就任されました。その後、彼は自ら「板倉研究室」を創設されました。

 

この新たな研究室でも、様々な実績を残されています。1994年にサイエンスシアター運動を提案されています。これは、科学をエンターテインメントとして楽しみ始めていたイギリス科学の伝統を日本に持ち込もうとの考えからの行動でした。

 

さらに、2007年には一度脳梗塞で入院していますが、4年後の2011年。日本教育心理学会の大会で特別講演や、2013年から約3年間日本科学史会会長に就任して科学史の裾野を広げるための講演会を開かれたりと精力的な活動を最後まで行われていました。

板倉さんの科学思想や教育思想について

個々からは、上記で紹介した板倉聖宣さんの経歴にて少し紹介した彼が掲げてきた科学思想や教育思想について紹介していきます。

板倉さんの科学思想について

板倉さんの科学思想で代表的なのが「矛盾論」です。彼はこの理論で、基本理論の交代における矛盾の重要性について明らかにしれいます。以下で、この理論について少し紹介していきます。

板倉さんが明らかにした「矛盾論」

板倉さんの「矛盾論」に関する主張は以下の様になっています。彼はまず、理論の交代が発生すると、古い理論の中に矛盾が生じることによって理論は危機に陥ると主張しました。そして、この矛盾を乗り越える中で生まれる結果こそが「新理論」だとしました。

 

この古い理論の内部に存在する矛盾とは、その理論に対して深くかかわった人ほど深刻に捉えてしまい、その矛盾が露わになるという特徴があるそうです。つまり、板倉さん曰く、古い理論の敵とは説明できないデータの存在ではないということです。

 

また、古い理論の敵とは競合する「新理論」の存在の出現でもありません。結論は、矛盾という存在こそが本当の敵だと彼は主張しました。以上が、彼が「矛盾論」に関して主張したことの要旨をまとめたものです。

板倉さんの思想に影響を与えた人物

ここまで、板倉さんの科学思想について紹介してきました。しかし、彼の思想が形成されたきっかけはまだ紹介していません。以下で、この点に焦点を当てて紹介していきます。板倉さんに最も大きな影響を与えたのは「武谷三男」という科学者です。

 

彼は、自身の研究分野である量子力学の研究から「武谷三段階理論」を提唱しました。1つ目が現象論的段階。2つ目が、実体論的段階。3つ目が、本質論的段階です。武谷さんは、この3つを以て科学的な理論は発展すると主張されました。

 

板倉さんは、その中でも現象論的段階の重要性について賛同されていて、自身の修士論文や博士論文でも武谷さんの三段階理論を基に自身の研究テーマの解明に成功されています。そして、この取り組みを通じて三段階理論の比較検討を実行されました。

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板倉さんの教育思想について

板倉さんの教育思想、並びに実践された思想は主に2つあります。1つ目が、「たのしい授業」の実践です。これまで言われてきた「基礎学力だから教えなければならない」という教育目標を1から見直し、その固定概念を崩そうと心血を注がれていました。

 

そのために、「たのしい」と「わかる」を故意に対立させる姿勢を鮮明にした手法で子供が楽しいことを教えるべきだという思想を持たれていました。2つ目が、「仮説実験授業」という手法の実践です。

 

こちらは、科学上で最も基礎的な概念、原理原則を教えるための授業です。板倉さんがそれまでの科学史研究の成果を基に提唱された授業方法でした。この授業では、「授業書」と呼ばれるテキストに従って授業が進められるという形式でした。

板倉聖宣さんの死因は老衰

これまで、数々の功績を科学思想や教育へ残されてきた板倉聖宣伝さんですが、2018年、2月7日11時21分に逝去されてしまいました。この時、享年87歳での出来事でした。その日の朝、突然呼吸が止まり、駆け付けたドクターが確認した時には帰らぬ人となってしまっていたそうです。

 

板倉さんの死因は「老衰」でした。板倉さんは、2007年に1度。その後2016年に1度脳梗塞を患われていました。その後は何度も入退院を繰り返しながら研究活動を継続されていました。

 

最後の最後まで病に負けずに研究活動に没頭された結果、板倉さんは命を最後まで全うされました。この時、板倉さんの功績を産経新聞が「残念ながら教育にはノーベル賞がない」とのコピーの基で組んだ彼の特集が大きな話題となりました。

 

 

板倉聖宣さんの葬儀について

では、ここから板倉聖宣さんが切望していた「原子論的葬式」について。もう1つ、板倉さんの実際の葬儀について紹介していきます。

以前から原子論的葬式を要望していた

原子論的葬式は、無宗教で行われます。つまり、読経やお線香といったお葬式につきものである慣習は一切用意されていません。その代わりに、読経やお線香に値する別の物を用意することが決まっています。

 

板倉さんの葬儀では、「献花」、「黙祷」、「千の風になって」をギターの伴奏と共に歌うことが執り行われたようです。以上のことから、原子論的葬式とは、無神論者の方の方々のための葬式であることがわかります。

 

板倉さんは、そうした方々への配慮のために、原子論的葬式を切望されていたのかもしれません。

実際の葬儀の様子について

では、ここからは板倉聖宣伝さんの葬儀についてもう少し詳細を紹介していきます。板倉さんの葬式では、弔辞が一般的な葬儀と異なる手法で行われたそうです。それが、板倉さんの葬儀では、弔辞は「参列者の方々」に向けて行われました。

 

普通は、弔辞は逝去された方の写真に向けて行われることが通例です。しかし、板倉さんが生前に、「それは参列者の方に失礼にあたるから、参列者に向けて弔辞を行ってほしい」という旨を伝えられていたそうです。つまり、この想いが反映された葬儀となりました。

 

板倉さんのこうした思いやりが溢れる葬儀であったためか、終始和やかな雰囲気でお通夜、葬儀共に行われたそうです。お通夜から葬式を含めて、仮説実験授業の草創期に活動した人々や古くからの友人、板倉さんの親族を含め多くの人々が参列されていたようです。

仮説実験授業などの新たな教育思想を掲げられた板倉聖宣さん

科学思想や教育方面に数々の功績を残されてきた板倉聖宣さん。今回は彼が残してきた功績やその経歴を中心に紹介してきました。その彼が望んだ原子論的葬式は、彼の無神論者への思いやり溢れる葬儀となっていました。気になった方は、ぜひ参考にされてみてください。